金剛山覚え書き(金剛山関係資料)     2012/12/30 (日)更新

日本200名山

金剛山 葛木岳1125m  湧出岳1112.2m 大日岳1094m の3つを総称して金剛山

金剛山の古名 こんごうせん 河内鑑名所記 延宝7年(1679) 河内名所図会 享和元年(1801)
          こんがう山
          ここせ
          高天山
          金剛山 (こんかうせん)河内鑑名所記 延宝7年(1679) 河内名所図会 享和元年(1801) 五畿内掌覽
          葛城山  (かづらきやま)河内鑑名所記 延宝7年(1679)
          かづらき山(かづらきやま)河内鑑名所記 延宝7年(1679) 「ともいう」の解説
          一乗山(いちじやうさん)  河内鑑名所記 延宝7年(1679) 「ともいう」の解説 

金剛山の名前の由来について
 金剛山転法輪寺の山号の部分が定着し「こんごうざん」と呼ばれるようになった。とする文章が多い
 法起菩薩と金剛山の関係が先かもしれない。

  江戸時代に発行された
   河内鑑名書記、河内名所図会には、寺号 転法輪寺 院号 最上乗院とある。
奈良五條市藤岡住宅にある木簡に
 「金剛山 実相院」「金剛山 長床坊」の名が残されている。
http://www.kongozan.com/kongo/fuziokake/index.html
山頂には
大宿坊 清泉 西室坊 行者坊 実相坊 長床坊 大黒堂があったと資料が残っている(河内鑑名書記)

金剛山の名称について
     金剛山の名称は登山が一般化されこの名が定着してきたとの説があるが明治・大正・昭和からではない
現存する道標の表記と年代を参考までに一部を記述する(出典 金剛山記P366)

 表記 建立和暦 西暦 場所
金剛山 万治四年 1661年 河内長野小深
こんがうせん 宝歴十二年 1762年 建水分神社
金剛山 宝歴十二年 1762年 建水分神社
金剛山 寛政八年 1796年 五條市小和
金ごう山 安政五年 1853年 明日香村


葛城山の古名 篠峯    河内國細見小圖 享和二年(1802年)
          戒那山  大和國細見小圖  嘉永元年(1848年)
          葛城山  方角改正 五幾内掌覧 天保十二年(1841年)
          かつらぎ山 (古地図で確認済み)

最高峰 ・・・・・・・ 葛木岳 1125m(葛木神社内、奈良県御所市)
           大阪府最高地点 1056m ちはや園地内にあります

湧出岳の一等三角点       奈良県御所市大字高天字葛木岳475番地   
  基準点コード TR15135459401 点名 金剛山 緯度 34°25′1″.1818 経度 135°40′38″.3380 標高 1112.08m
山頂売店の所在地(公衆電話) 奈良県御所市大字高天字葛木岳472番地

葛城山の二等三角点       大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分字篠峯山1284-2  
  基準点コード TR25135554401 点名 篠峰山 緯度 34°27′22″.1653 経度 135°40′56″.3406 標高 959.17m

その他金剛山について
 昔は金剛山と葛城山が一つになっていたが浸食作用で今の形になった  出典 金剛山記

金剛葛城山系地名語・・・仲西先生の葛城山地地形語をベースにしました
スッテン、チョッペ、テッペ、テッケ、ミネ(峰)
  山頂のこと

オ(尾)、オー、オネ(尾根)
 山稜または分水嶺の事

タワ(山扁に定めると書・撓)
山稜上で角度の緩やかな地点。山と山の撓み(たわみ)・山の尾根の低くくぼんだ所。鞍部(あんぶ)。 峠の古語

タイラ
 山中における平地、または台地上になったところ

ハラ(原)
 山中の日当たりの良い所

サコ
 小さな谷、側稜と側稜との間の窪地 山あいの小さな谷

クボ(窪)
山中における窪地

トコ
タイラの小規模なもの

クチ(口)
一定地点の入り口

ヨコテ(横手)
山腹の巻道

コバ(木場)
材木の集散地、山中での憩いの場

ツジ(辻)
山道の分岐点、または山道が交わる所。両側に谷を持つ山の鞍部

デアイ(出合)
落合(オチアイ)ともいう。谷または道の合流点と、川との合流地点。

サカ(坂)
山中の傾斜した道

ゴエ(越え)
国境、村界などを越える道


 谷のせまった通れないところ

セト
山道の乗越し点 
狭門(せと)は山間の沢の行止まり。谷の奥まったところ。みずひ。みずぼし。せき。 山が両側に迫って狭くなっている所。谷間のこと(日本国語大辞典より)
瀬戸(セト)は狭門(セト)の意味(goo辞典より)

ヒウラ
ヒウケとも言う、日当たりの良い山の斜面

セキ(関)
 谷の行き詰まり

ヌタバ
イノシシなどの水浴場になる湿地

デンパリ
山腹の突き出たところ

エンゴ
小さい谷

ミツアイ
谷が三つ出会うところ

ハカイバ
山から木を切ってきて積み込むところ。札場

ビシヤカケ
傾斜のきつい断崖

ウケコシ
尾根の乗越し点。

馬の背
やせた尾根

カマオ(鎌尾)
やせた尾根

ヒラダ
平のまま登りになっているところ

ドレンボ
斜面の崩れたところ

オカギリ
境界線となっている山稜

サカモギ(逆茂木)
急な傾斜地、トゲのある木で作った垣根

ゴラワラ
石のゴロゴロしている所

金剛七坊(鎌倉時代)  大和側 朝原寺 石寺 大沢寺 高天寺   河内側 修道子(集堂子堂) 坊領山 多聞寺
山頂 大宿坊が本願
脇寺六坊 行者坊(井戸のある広場) 長床坊(今の山頂売店前) 西室院 実相院(金剛桜の近く) 石寺(小和道) 朝原寺(関屋道) 

 

楠木正成公の墓について

   登山本道にフロノ谷から尾根へ登ったところにある墓は古くは「首塚さん」と呼ばれていたらしい。 引用南河内考古學研究所 (注意 「着塚」の表記は誤植)
   楠 正成の墓ではと言う説と楠木正義の墓の2説があるが、私の子どもの頃は楠 正成の墓と聞いていた。
   観心寺にあるのは楠 正成の首塚で湊川の戦いで破れた楠 正成公の首が、
   一晩で観心寺まで飛んできたと小学生の頃に聞いた記憶がある
   古地図のほとんどは楠 正成の墓の記述
     文政11(1828)年青生東谿:著住田文庫(神戸大学附属図書館) 國郡全圖 上・下 河内國 大和國
     天保5(1834)年山崎松居住田文庫(神戸大学附属図書館) 大日本輿地便覧 乾・坤 河内國 大和國
     方角改正 五畿内掌覧奈良県立図書情報館 方角改正 五畿内掌覧 
     参考東北大学附属図書館狩野文庫画像データベース 奈良県立図書情報館 西国巡礼道中図

金剛山の石宝殿について

   河内金剛山の石宝殿は、『河内鑑名所記』の金剛山の項に「……えんの行者だうのむかひに石のほうでんあり、
   葛城七大金剛童子則是也」と書かれるが、今はない。恐らく葛城七大金剛童子を安置した石の祠であろう。
    井上氏のHP 石宝殿からの引用
   行者堂跡は井戸のある広場

2006.2.19追加情報 葛城氏より
   明治初期の廃仏毀釈の時には金剛山山頂にはもう転法輪寺はなかった。
   現在の葛木神社の場所には石の祠が数カ所あっただけ、転法輪寺もなかった。
   現在の売店のあたりに葛木神社があった。
   現在の役行者堂は、水分神社から移築した物で場所も昔と違う

一の鳥居と駒留社、法華経一字一石塔
 一の鳥居の近くに法華経一字一石塔があるが、他の場所から移転されてきた物 駒留社
出典
  昭和初期の写真はがき 石塔はなく社が映っている 駒留社
  天下の霊峰 金剛山 9〜10ページ 葛城貢編集 葛木神社発行 昭和7年5月発行

その他千早赤阪村資料 南河内考古学研究所 文化財情報

甲取坂 は森屋から旧千早街道をとおって下赤坂城に行く途中にある坂(千早赤阪村教育委員会)
屏風坂 は下赤坂城の近くの可能性 字名として 甲取坂 屏風塚 藤林 出合 隠水などが残っているが
      屏風塚については場所未確認

甲取坂・・・千早赤阪村郷土資料館で展示中の絵図の中、下赤坂城趾の所に「甲取坂」の表記あり
     

古地図一覧
 東北大学附属図書館狩野文庫画像データベース 河州石川繪圖
 東北大学附属図書館狩野文庫画像データベース 河内細見圖
 東北大学附属図書館狩野文庫画像データベース 河内國細見圖(河内國大繪圖)
 東北大学附属図書館狩野文庫画像データベース 五畿内掌覽 並附録
 岐阜県図書館/世界分布図センター古地図目録 河内國大繪圖 全1870(明治3)年曉晴翁(校正)、松川半山(書図)、河内屋喜兵衛(梓)、井上治兵衞(彫刻師)
 岐阜県図書館/世界分布図センター古地図目録 河内國絵圖/山越從嶮岨至平地 道法・道巾/方角依行1709(宝永6)年林浄甫(撰)、吉田五郎右衛門(彫)
 岐阜県図書館/世界分布図センター古地図目録 増補改正 河内細見圖 全1776(安永5)年塩屋 平助(板)、河内屋 喜兵衛(改正)、鳴井 兵右衛門(作)、高木 容膝齊正恒(画)、伊丹屋 新七(彫)
 住田文庫(神戸大学附属図書館) 國郡全圖 上・下 / 青生東谿:著 大和國芸亭蔵梓, 文政11(1828)年
 住田文庫(神戸大学附属図書館) 大日本輿地便覧 乾・坤 / 山崎松居:編 大和國天保5(1834)年
 河内國細見小圖 京浪 享和2年(1802)
 河内名所図会 享和元年(1801) 復刻柳原出版
 河内鑑名所記 延宝7年(1679)  上方芸文叢刊刊行会

復刻古地図販売  製作 叶l文社

楠木正成関係書物

「楠木合戦注文」 昭和11年(1936)4月刊「正慶乱離志」  国会図書館|近代デジタルライブラリー正慶乱離志
太平記←歴史小説でかなりの誇張があるようです。でも真実も含まれています・・・だからややこしい
「河内金剛山城塞考」『史学雑誌』29-11大正7 大熊權平
「楠公築城論」『上方』39、同『偕行社紀要』、 林部與吉氏              
「赤坂城塞群」 村田修三
日本城郭体系12  日本城郭体系全20巻、新人物往来社、S.55
太平記
現代語訳太平記

河南八勝
 楠公史跡河南八勝第一蹟 天野山金剛寺 真言宗御室派大本山
 楠公史跡河南八勝第二蹟 楠妣庵観音寺 河内西国霊場20番所 禅宗
 楠公史跡河南八勝第三蹟 河内檜尾山観心寺 楠 正成首塚 新西国客番霊場 
 楠公史跡河南八勝第四蹟 千早城址
 楠公史跡河南八勝第五蹟 金剛山
 楠公史跡河南八勝第六蹟 建水分神社 たけみくまりじんじゃ
 楠公史跡河南八勝第七蹟 楠公誕生地
 楠公史跡河南八勝第八蹟 紫雲山葛井寺(古子山葛井寺・紫雲山金剛琳寺 )しうんざんふじいでら 真言宗御宗派

2006.2.12 六蹟と八蹟は楠妣庵の受付に座っておられたおじいさんに教えていただきました。
楠公史跡河南八勝は戦前に楠公ゆかりの寺などが話し合ってこのような形になったそうです。
八蹟紫雲山葛井寺は合戦あった場所だそうです。
また、屏風坂は出会橋から金剛山側に少し行くと屏風のように切り立った崖があるそこのことではと言っておられました
丁寧な対応に感謝です。ありがとうございました。

金剛山関係の名所旧跡

転法輪寺最上乗院  金剛山山頂 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
                       河内名所図会 享和元年(1801)
     水分(すいふん)の宮より本堂へ六十六町 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
     森屋村より本堂へ七十八町 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
     森屋村より登ること百四十町 河内名所図会 享和元年(1801)
     鎮守に三十八社
大黒堂  河内鑑名所記 延宝7年(1679) 金剛山山頂
石のほうでん(葛城七大金剛童子)  河内鑑名所記 延宝7年(1679) 金剛山山頂
ゑんの行者だう   河内鑑名所記 延宝7年(1679) 金剛山山頂
閼伽井         金剛山山頂不明 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
                         河内名所図会 享和元年(1801)
ふく石河   河内鑑名所記 延宝7年(1679)
福石 大黒天の形 この石より東を大和、 西を河内とす    河内名所図会 享和元年(1801)
坊舎はみな河内 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
大宿坊
大宿坊(おほすくぼう)の前に清泉(せいせん) 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
学寮 西室坊(にしむろばう)行者坊(ぎやうじやばう)実相坊(じつさうばう)長床坊(ながとこばう) 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
ごま堂
弁財天女社 河内名所図会 享和元年(1801)
大日堂    河内名所図会 享和元年(1801)
十三重石塔婆 河内名所図会 享和元年(1801)
手水所(てうづしよ) 河内名所図会 享和元年(1801)
頂嶺を大日嶽(がたけ) 本堂の北 河内名所図会 享和元年(1801)
国見山は坊中の西 河内名所図会 享和元年(1801)

石寺坊(いしてらばう)、朝原寺(あさはらじ)は大和国 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
酒堂寺(しゆだうじ) 本堂より十八町 戌亥の方向 水分から上がる道にあり 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
集童子堂(しふどうしたう) 本堂より十八町西 水分へ下る路傍今は草堂(さうたう) 河内名所図会 享和元年(1801)
千早の城(楠木正成城跡) 本堂より十八町  ひつしさるの方 森屋村の方 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
             下の赤坂城へ千早城より六十一町 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
千早城跡(ちはやのしろあと) 金剛山(こんがうせん)の半腹(はんふく)千早村の上方 河内名所図会 享和元年(1801)
    金剛の山峯(さんほう)へよじのぼる事二十八町 中途に国見山(くにみやま)あり 河内名所図会 享和元年(1801)
五所の秘水 の跡は此の城地のめぐりにあり 河内名所図会 享和元年(1801)
風呂の谷 河内名所図会 享和元年(1801)
楠正成石塔 本堂より千早へ行道にあり 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
楠石塔 図中表記 河内名所図会 享和元年(1801)
楠公墓 図中表記 五畿内掌覽
楠正成墓 図中表記 河内國細見小圖
高天寺 図中表記五畿内掌覽
石寺   図中表記五畿内掌覽
赤坂城趾(あかさかのしろあと) 上の赤坂は水分の上方金剛山の半腹 河内名所図会 享和元年(1801)
                     城の東に山の井と言う名泉あり 河内名所図会 享和元年(1801)
下の赤坂は森屋村の東南東條川の西岸 河内名所図会 享和元年(1801)
下の赤坂(楠の枝城) 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
楠氏第趾(なんのしやしきあと) 下赤坂城門の中 河内名所図会 享和元年(1801)
一ノ木戸         河内名所図会 享和元年(1801)
甲取坂(かぶとりさか) 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
               河内名所図会 享和元年(1801)
藤林          河内鑑名所記 延宝7年(1679)
             河内名所図会 享和元年(1801)
屏風塚         河内鑑名所記 延宝7年(1679)
             河内名所図会 享和元年(1801)
出会   赤坂の辺 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
             河内名所図会 享和元年(1801)
寄手塚 見方塚 森屋村三昧所にあり 河内名所図会 享和元年(1801)
小根田古城 二河原部村にあり 平野将監 河内名所図会 享和元年(1801)
国見城(くにみのしやう) 楠七郎城跡 本堂より二十五町下 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
若山(わかやま) 和田五郎矢倉をあげし城 本堂より三十九町下 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
本見ぬ山(もとみぬやま) 峯は八よう 八社 観音堂 森屋より三十八町上がる 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
本不見山(もとみぬやま) 東坂村 森屋村より三十八町上方 河内名所図会 享和元年(1801)

鼓か尾 水越峠に上がる道にあり こんかうせんの方 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
水越峠 金剛山と篠峯の間 谷川にめおと淵あり 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
      水分川の上にあり大和街道なり 金剛山と篠峯の間 谷川に女夫淵(めうとがふち)あり

水分神社 河内鑑名所記 延宝7年(1679) 
建水分神社(たてみわけのかみのやしろ) 水分村にあり 河内名所図会 享和元年(1801)
水分こしろ 水分村にあり
楠正成誕生所 水分神社より戌亥の方 弐町 河内名所図会 享和元年(1801)
大森彦七塚 森屋村の東 河内名所図会 享和元年(1801)
水分谷寺 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
北水分超正寺 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
河野辺西福寺 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
芹生谷 野老の名物 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
馬谷観音寺 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
森屋常念寺 河内鑑名所記 延宝7年(1679)

神山休預堂(かうやまあじゆんたう) 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
餅搗山(もちつきやま) 休預堂(あじゆんたう) 神山村にあり河内名所図会 享和元年(1801)

日出目村光明寺正保院 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
光明寺(くはうみやうじ) 日出目村(ひつめむら)にあり村の名を十二月(ひつめ)晦日ともかく 寺を正法院という河内名所図会 享和元年(1801)

寛弘寺(くはんこうじ) 村の名とする 河内名所図会 享和元年(1801)

中津原向福寺 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
小吹村蓮花寺 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
菖蒲が堂 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
甘南備村(かんなび)に白揚梅(しろやまもも)の名木あり 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
佐備渓 水源 河内名所図会 享和元年(1801)
佐備村妙見寺 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
咸古佐備神社(かこさびのしんしや)  甘南備村にあり 河内名所図会 享和元年(1801)
竹谷不動明王 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
滝渓山明王寺(りうけいさんみやうわうじ)滝渓(たきたに)にあり竹谷とも作る 河内名所図会 享和元年(1801)
河内観音寺 河内鑑名所記 延宝7年(1679) 
中村大日堂 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
龍泉寺 河内鑑名所記 延宝7年(1679)
牛頭山龍泉寺医王院 (ごづさんりうせんじゐわうゐん) 龍泉村にあり河内名所図会 享和元年(1801)
千人隠れ 龍泉寺の図中表記 河内名所図会 享和元年(1801)
龍泉山城跡 龍泉の山上にありその中に千人隠れという所あり 河内名所図会 享和元年(1801)
富田林 南河内 都会の地 河内名所図会 享和元年(1801)



金剛山周辺の滝関係
大日の瀧 河内鑑名所記 延宝7年(1679) 場所不明


観心寺 真言宗の寺
 約1300年前の701年(大宝元年)に役小役により、開かれ、当初は雲心寺。
 その後100年 平安時代の初め大同3年(808年)に弘法大師空海が訪れた時、境内に北斗七星を勧請され、7年後に、 衆生の除厄のために本尊如意輪観世音菩薩を刻まれて寺号を観心寺(観心寺パンフレットからの引用)

千早鉱山
 水銀鉱山  未発見であるが砂金の取れる可能性ありと言う人もいる・・・あくまで可能性です
 黒とが谷入り口付近にあったもよう・・・・兵庫県生野銀山の資料の中に名前を発見
 辰砂の資料は 大阪鉱物研究会付属大阪鉱物博物館(メインページへのリンク
 二上山麓の金剛砂鉱床中から砂金も発見されているようだ
 金剛山の沢でも砂金がとれる可能性あり
 千早鉱山ではしばしば黒辰砂を伴い紅色の鉱染状をなして産した。
 千早の水銀は楠木正成の軍資金にもなったという話もある。
 太平洋戦争中には採算度外視で採掘された。

 千早の黒栂谷と水分の石ブテ谷の横のに小峠谷(ホソノ谷)にも存在。小峠谷は坑道が残り、露天でも採掘していた。

経塚について
金剛山の経塚は湧出岳にあり 葛城二十八品 第二十一経塚 妙経如来神力品

法華経は8巻28品69384文字(日蓮)
巻第一  序品第一 方便品第二
巻第二  譬諭品第三 信解品第四
巻第三  藥艸諭品第五 授記品第六 化城諭品第七
巻第四  五百弟子受記品第八 授學無學人記品第九 法師品第十 見寶塔品第十一
巻第五  提婆達多品第十二 勸持品第十三 安樂行品第十四 從地涌出品第十五
巻第六  如來壽量品第十六 分別功徳品第十七 随喜功徳品第十八 法師功徳品第十九
巻第七  常不輕菩薩品第二十 如來神力品第二十一 屬累品第二十二 藥王菩薩本事品第二十三 妙音菩薩品第二十四
巻第八  觀世音菩薩普門品第二十五 陀羅尼品第二十六 妙荘嚴王本事品第二十七 普賢菩薩勸發品第二十八
参考 日蓮宗 妙福寺HP  WIKI

一の鳥居の大阪側にある 法華経一字一石塔(この彫り面は奈良側を向いている)
施主 和州宇智郡近内村 藤岡長兵衛 (この彫り面は葛木神社側を向いている)
文政三庚辰年八月日 (この彫り面は大阪側を向いている 文政三年は西暦1820年 江戸中後期かな?) 
 (文政は 文化の後、天保の前。1818年から1829年まで 天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉)
     観蓮等阿居士
 為  先祖代々菩提也  (この彫り面は奈良を向いている)
     蓮乘光運信女
法華経一字一石塔は法華経の約7万字(69384字)を1つの石に一文字書いた物を納めた塔
この一の鳥居・法華経一字一石塔の近くに駒留社があった
一の鳥居の直ぐ左傍に駒留社あり。大楠公吉野皇居に伺候の途次常に駒を留めて社前に拝礼し給ひしより此の名あり畏くも
後醍醐天皇には「此峯は天神地紙援護の地なり文武百官此處より下馬すべく犯すべからず建武二年乙亥九月」
と云う勅定の立札ありし所にして永く下乗所なりき(天下の霊峰金剛山 葛城貢) 


金剛山のホームページ(金剛山登山道情報)−仕様書−

以下の内容は管理人が独自に決めて運用している内容です。

サーバ Kagoya Internet Routingg

ドメイン kongozan.com

メインページ
 ファイルネーム index.html
ルート上の一番あたま
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・金剛山をメインの題材としているページ かつ 相互リンクして頂いているページ
・政治関係のページは不可

登山道情報
基本的に広告不許可
基本的に市販の地図に載っているルートを掲載するが独自判断
ファイルネームは通称をそのまま利用
新たな道の名称の提案は混乱をきたすので行わない
画像 250×187 ipg形式 圧縮率20%
拡大画像 640×480 jpg形式 圧縮率30%
基本的に自分で撮ってきたオリジナル画像
他から画像借用の場合は出どこを明記

過去の掲載ルートについてはお約束をして頂いた人のみ閲覧可

金剛山花の図鑑
「金剛山花だより」から改称
基本的に広告不許可
金剛山域(大阪・奈良)に咲いている花を紹介
金剛山域の基準(あくまでこのHPの基準かってに決めていますw)
北 水越峠まで
東 JR和歌山線あたりまで
南 久留野峠まで
西 千早大橋付近まで

ファイルネーム・画像名
花の名前をそのまま利用
サムネイル 140×105 jpg形式 圧縮率30% ファイルネーム-s.jpg sはsmallの略
画像 640×480  jpg形式 圧縮率30% 紹介ページ上は 300×219で小さく表示
基本的に画像はオリジナル 借用している場合は承諾をとった後借用の表示(現在無し)
検索しやすいよう 月別にしたうえ、色別で分類
花の咲いている時期は金剛山にあわせる
この地区に生えていないと言われているものでも、発見した物はすべて掲載
明らかに外来・植栽の植物はその趣旨を表示
無表示は自然のもの

ダイヤモンドトレール
画像 300×187 ipg形式 圧縮率20% が基本
風景画像 640×480 jpg形式 圧縮率30%もたまに使用
通し番号で整理してきたが地区ごとの整理番号に整理予定
旧 0010umanose.jpg  001A地区.jpg 001は通し番号 Aの部分に1が入ると逆方向 地区名

新 B01○.jpg Bは地区 01 地区の通し番号
A地区 二上山−岩橋峠
B地区 岩橋峠−葛城山
C地区 葛城山−水越峠
D地区 水越峠−金剛山
E地区 金剛山−久留野峠
F地区 久留野峠−行者杉峠
G地区 行者杉峠−西の行者
H地区 西の行者−紀見峠
I地区  紀見峠−岩湧山三合目
J地区 岩湧山三合目−岩湧山
K地区  岩湧山−滝畑
L地区 滝畑−槙尾山

○の区分
n は北方向 north(二上山方向)
s は南方向 south(槙尾山方向)
g は案内板 Guide
f は風景・景色 fuukei  Sceneryはややこしくなるので使わず

ダイトレ中の登山道案内で
u は登り(山頂方向) up
d は下り(山麓方向) down

リンク集
基本的に相互リンク集
政治団体・アダルト系は不可
交通機関等必要と思われるものに付いては一方的なリンク
相手先がリンクを外した場合、リンク集から抹消

ライブカメラ
カメラの製作・技術的なサポートはKONGOZAN.COMの管理人
カメラの運用はKONGOZAN.NETの管理人(葛木神社)
広告可能
画像置き場は葛城氏のサーバ
集合画像はKONGOZAN.COMのサーバ

カメラ→パソコン
金剛山山頂  ↓
カメラ→パソコン→FTP→葛城氏サーバ←画像リンク←Kongozan.comサーバ
温度計測↑                   ↓  ↓
カメラ→パソコン→FTP→小学校HPサーバ←  ↓  
カメラ→パソコン→FTP→千早園地サーバ←←←

 

現在所持している書籍

関西ハイキングガイド・・・実家
ワンデルングガイドT 金剛山 岳洋社 根来春樹著
登山・ハイキング案内 金剛山 ヤマケイ関西
大阪周辺の山250ベストコース 山と渓谷社
地球の風25 登山ハイク 金剛山地 日地出版
新・分県登山ガイド26 大阪府の山 山と渓谷社  
大楠公一代絵巻 楠妣庵観音寺発行
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トラストブックシリーズ 七道十景 葛城の道 日本ナショナルトラスト編
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大和國細見小圖  人文社 復刻古地図
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方角改正 五畿内掌覧  人文社 復刻古地図
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千早赤阪村村史
千早赤阪村小字地図(千早赤阪村村史付録)

登山・ハイキング39 金剛山地 ZENRIN

登山・ハイキング 日地出版
1969年版 金剛・岩湧・葛城山脈 執筆宮川良彦・御勢久右ェ門

山と高原地図 昭文社
1978年版 金剛山・岩湧山  執筆中西政一郎
1978年版 葛城高原・二上山 執筆中西政一郎
年度不明青カバー 金剛山・岩湧山 地図紛失
1996年版            葛城高原・二上山
1997年版 金剛山・岩湧山  執筆根来春樹・上横手健義
1998年版 金剛山・岩湧山  執筆根来春樹・上横手健義  大台ヶ原
1999年版 金剛山・岩湧山  執筆根来春樹・上横手健義
2000年版 金剛山・岩湧山  執筆根来春樹・上横手健義  紀泉高原
2001年版 金剛山・岩湧山  執筆根来春樹・上横手健義
2002年版 金剛山・岩湧山 葛城高原・二上山
2003年版 金剛・葛城・紀泉高原
2004年版 金剛・葛城・紀泉高原
2005年版 金剛・葛城・紀泉高原

河内長野市関係資料
その他 河内長野・金剛山について古い書物の資料(未整理)

河内長野遊園地・錦渓温泉について

絵はがきの所在・・・あり
南河内長野遊園内錦水楼温泉の一  (現在のイズミヤ近く旧ラドンセンターあたり)
南河内長野遊園内錦水楼温泉前行者岩付近鮎狩りの景(高野登山鉄道長野駅接近
高野登山鉄道長野遊園より烏帽子形山城址